不定期連載 コラム
第一回

韓国古人骨探訪記(1)

藤田 尚

きっかけはいつも突然やってくる

2003年3月のある日、職場である新潟県立歴史博物館へ、奈良文化財研究所の松井章先生が来た。同僚のWさんが主催する、動物の研究会に参加するため来館されたのだ。そこで松井先生の方から、「韓国の勒島で人骨が出たので、霊研の茂原さんに頼んだわ。」とお話しされた。その時私は「ああそうですか。」と答えたのみだったが、これが今にして思えば、私と韓国の古人骨、そして現在も続いている韓国の研究者らとの関わりの第一歩だった。

勒島遺跡
勒島遺跡 写真は慶南考古学研究所発掘地点

それから何日かが過ぎ、3月に東京の御茶ノ水のガーデンパレスで、木村賛東大教授の退官パーティーがあり、出席した。この木村先生は、日本人類学会の会長も勤めた人だったし、会は盛会で、関西方面の見知った顔がいくつも見えた。その中に、茂原信生京都大学霊長類研究所教授も居られ、自然と雑談になった。私は、「そういえば、先日奈良文化財研究所の松井先生が、うちの博物館に来られ、韓国の人骨を茂原先生がやられると言っていましたよ。」というと、「そうなんだけど、忙しくてねえ。藤田さんやる?」と聞かれた。

私はこれまで、国内の縄文人などの研究はかなりやってきたが、実際に外国の人骨研究に携わったことはなかった。しかし咄嗟に「はい、お願いできますか。」と言った(言ってしまった)。茂原先生は、「それじゃ、早速松井さんと連絡を取ってみるから。」といわれ、その場は別れた。

数日して、茂原先生からメールが来た。そのメールには、「松井さんと相談した結果、韓国の人骨を、藤田さんに頼みたい。」とのことだった。「よろしくお願いします。」と早速返事をする。ただこの時、私の脳裏には、うれしい気持ちと、少しの不安が同居していた。その不安とは、県立博物館の研究員である私の韓国行きを、果たして館が許可するかどうか、というものだった。博物館といっても、行政の下部組織であるわけだ。大学のように自由に出張というわけにはいかない。そこで茂原先生に、調査の概要を教えてくれるように頼んだ。それを館長に伝え、まず館長の許可を取ってしまおうと考えたのだった。茂原さんから、人骨研究の概要を聞いた私は、すぐ、館長の小林達雄先生に手紙を書いた。小林先生は、館長職は非常勤で、通常は國學院大學教授として、大学の方へ勤務していた。数日後、小林先生から私宛に電話が来た。「その件は私も松井さんから聞いている。副館長にも許可してやるよう、言っておいたから。」という内容だった。そこで初めて、茂原先生、松井先生に、本件を受諾する旨のメールを送信したのだった。こうして徐々に、韓国人骨に携わる環境が整っていった。

勒島人骨写真
勒島人骨写真 渡来系弥生人骨よりさらに細面で”弥生的特徴”が強い

SARS禍

同僚の佐賀大医学部大野博士と
同僚の佐賀大医学部大野博士と(晋州市にて)

2003年初春は、SARS(新型肺炎)の問題が世界中を震撼させた。死亡率は10%を超えるといわれ、中国や台湾、カナダのトロントなどで流行していた。
 茂原先生が忙しくなったので、私に交代すると、韓国慶南考古学研究所所長の崔鐘圭先生にFAXを流したところ、茂原先生からも事情が伝わっていたらしく、「どうぞよろしく。」という返事と共に、「5月ごろ訪韓してくれませんか。」とのことだった。ちょうどその5月は、私は館の企画展の担当だったし、SARSのことも怖かった。幸いなことに、日本と韓国では患者が出ていなかったけれど、これだけ人の移動が激しい現代社会において、アジア地域全体が危険なのは一緒だった。

担当の企画展は6月1日まであるし、その後の後始末もあった。また6月12日には、天皇皇后両陛下の行幸啓があり、この日も不在は許されそうになかった。そうこうしているうちに、日がどんどん過ぎてゆき、6月18日から開かれる日本老年学会が迫ってきた。今回は名古屋が会場である。茂原先生の勤務する犬山の霊長類研究所とは目と鼻の先。この機会に、一度、茂原先生と実際に会って、話をしてみようと思った。それで、学会終了日の6月20日に霊長類研究所でお目にかかることになった。

 京都大学霊長類研究所には、茂原先生の外にも、片山一道先生という「骨屋さん」がいる。片山先生とも以前から懇意にしていたので、片山先生の部屋も訪ねたのだが、残念ながら不在であった。片山先生から依頼された、10月の日本人類学会の公開シンポジウムの発表抄録をまだ手渡していなかった私は、ちょっと後ろめたさもあったが、ここまで来て、挨拶もしないとういう法はなかったわけだ。しかし片山先生が不在で、なぜかほっとしてしまった(怠惰な私)。茂原先生からは食事に誘われ、名古屋名物の「ひつまぶし」をご馳走になりながら、いろいろと話をした。まず、何はともあれ、早めに一度訪韓してほしいということ。それからこの人骨の鑑定役が、私に回ってくるまでの経緯もお話くださった。その詳細は、大学や個人の実名が出てくるのでここに書くことは憚られるのだが、人間社会のどこにでもある様な、好き嫌いや、あの大学には任せたくない、この大学では人類学の研究が出来なくなっている、といった世俗的なものも含まれていた。やれやれ、どんな世界も、世間を渡るということは、難儀なことだ。とにかく、すばらしい人骨だから、藤田さんの為にきっとなる。是非よろしく頼む、とのことで、「それではなるべく早く訪韓致しましょう。」ということで、茂原先生とは別れた。

 博物館に戻った私は、早速、慶南考古学研究所の崔鐘圭先生とFAXのやり取りを開始した。そして、研究所から館長宛の招請状も出してもらい、いよいよ渡航の日程も決定した。こうして、韓国の古人骨研究が始まるのだが、まさか現在に至る韓国との共同研究、相互の訪問的フォーラムの開催、そして国際会議共同主催にまで至るとは、当時夢にも思っていなかった。

続く

藤田 尚 Fujita Hisashi 博士(医学)東邦大学医学部

藤田 尚

【経歴】
2021年1月~2024年3月 株式会社パレオ・ラボ顧問
2020年9月~現在 同志社大学文化遺産情報科学調査研究センター副センタ―長
2016年4月~現在 早稲田大学文学学術院考古学コース非常勤講師
2008年4月~現在 東京都健康長寿医療センター協力研究員
2006年4月~現在 東京大学大学院理学系研究科客員共同研究員
2005年4月~2020年9月 新潟県立看護大学准教授
1999年5月~2005年3月 新潟県立歴史博物館主任研究員
1995年4月~1997年3月 聖マリアンナ医科大学医学部助手
2018年4月~現在 日本古病理学研究会会長
2004年9月~現在 日本老年歯科医学会代議員
1999年10月~現在 日本人類学会評議員
1999年3月 東京大学大学院理学系研究科修了
1989年3月 早稲田大学教育学部地理歴史専修卒業
1965年6月 青森県に生まれる

【主要業績】
The frequency of conical incisors in Edo period of Japan
 Fujita, H, Oguma, M, Eguchi, K, Fujisawa, S, Oyabu, Y, Nomura, K
 Asian Journal of Paleopathology, 2, 31-34, 2018
Preface to the Special Issue on Paleopathology
 Hisashi Fujita, Dong Hoon Shin
 Anthropological Science, 125(1), 1-2, 2017
Paleohealth based on dental pathology and cribra orbitalia from the ancient Egyptian settlement of Qau Hisashi Fujita, Hiroto Adachi
 Anthropological Science, 125(1), 35-42, 2017
Healed femoral fracture, from the 10th century Ohotsk culture, excavated from the Hamanaka 2 site
 Fujita, H. Fujisawa, S, Nomura, K
 Asian Journal of Paleopathology, 1, 30-33, 2017
Prolonged retention of primary teeth and TMD from the archaeological sample in the Edo Japanese
 Fujita, H
 European Journal of Preventive Medicine, 2(6), 110-113, 2014
Abydos遺跡出土人骨の歯科疾患及び頭蓋に見られたストレスマーカーについて
 藤田尚
 Anthropological Science, 122(1), 55-61, 2014
江戸時代人の歯から現代を視る
 藤田尚
 Anthropological Science, 121(1), 49-55, 2013
縄文人や弥生人はどのように形成されたか(予報)-韓半島の古人骨の調査からー
 藤田尚
 Anthropological Science, 121(2), 49-55, 2010